可児市観光協会

 皆さん、「明智光秀」 という人をご存じですか?
 彼こそ戦国時代、武力で天下を統一しようとしていた
織田信長 を倒して(本能寺の変)、”戦国”という時代の流れを変えた武将です。
 この
「明智光秀」は美濃源氏・明智家の長男として 美濃国可児郡 (現在の岐阜県可児市)の明智城で生まれました。そして十一歳で城主となり、 落城する(二十九歳)までの三十年近くをここ「可児郡」 で過ごしていたと考えられています。
 ではこれから、この
明智一族可児郡、明智城 について説明をしましょう。
明智氏ってどんな一族?
一、明智氏の誕生
源頼光(源氏の祖)直系・土岐氏は、鎌倉〜室町時代とても有力で、大動脈「東山道」が通る穀倉地帯”美濃”を所領。 その中心は都に近い西美濃でした。一三四二年(室町初期)、守護・土岐頼康は弟の頼兼を東美濃方面の統治のかなめとして可児郡明智荘を治めさせ、この頼兼が「明智氏」を名乗り、明智一族が誕生しました。『美濃国諸旧記』。 なお、家紋は代々土岐家と同じ「水色桔梗」で、土岐家有事の際にはこの旗を揚げて守護の下へ駆け参じました。

※ 余談ですが、明智氏は代々美人が多く、光秀やその従姉妹の濃姫(信長の正室)も大変美形だったそうですョ!
二、平和主義を貫く明智氏

明智氏は代々幕府警護を行う要職にあり、争い事には中立を守るよう心掛けました。主家・土岐氏は「応仁の乱※」で力を失い、やがて斎藤道三に美濃を奪われましたが、明智氏は戦乱を避けて同族や土豪達、斎藤道三、尾張の織田氏とも積極的に同盟を結んで(図1参照)、また跡目争いを起こさないよう努めて平和的統治を行い、周辺領主と共に宿場町や港や産業(陶器)を譲りました。
※ 応仁の乱・・・一四六七年〜一四七七年の将軍後継者争い。全国の大名が京都で東軍・西軍に分かれて争った結果、都は荒れ、国中の政治が乱れて下克上の世を生み出した。
三、明智城落城と織田信長

一五五六年、美濃領主、斎藤道三・義龍親子が争い、明智氏は中立を守りました。勝った義龍は、明智氏が尾張勢と親しく東美濃諸族にも影響力を持つためこれを攻め、明智城は築城以来二百十年余りで落城。織田信長や豊臣秀吉に仕えた前野雄善・雄親子の史実書「前野家文書・武功夜話」には明智城籠城戦の模様や明智家と織田家の関わりが記されています。落城の時、城主だった光秀は一族再興のため城を脱出し、後には信長の下で異例の大出世をしますが、彼らはすでに落城前から互いの存在をよく知る仲だったのです!
美濃国可児郡ってどんな所?
経済発展の地で情報収集に優れた軍事戦略のポイント

地理的に、穀物地帯(濃尾平野)の北端にあって東山道や木曽川も通り、東美濃と西美濃、飛騨と尾張の連絡口でもあるので(図2)港・宿場町が栄え、商人や地方役人、旅芸人達の行き来も多く、太古から経済が発達していました。そのため、都や国中の情報も彼らからいち早くもたらされました。
また、地形的に木曽川と小高い山々に囲まれた盆地で自然の要塞だったため、単に経済上の重要拠点だっただけでなく、美濃領主にとって尾張軍の進入を防ぐ非常に重要な軍事拠点の一つでした。
※ 江戸時代以前には、整備された道は東山道など五街道以外ほとんど無く、都と各地を税(農作物)や軍隊が大量に早く移動できるのは、やはり五街道だけでした。
明智城ってどんなお城?
「明智城」は東西一二〇〇メートルに及ぶ長い山城で、「長上城」とも呼ばれています。 張り出した屋根や谷を余さず利用し、わずかな山稜の起伏に巧みに手を加え、多くの複雑な曲輪を配した、典型的な中世の山城です。
 この山稜東部のひときわ高い部分(標高一七八メートル)を「一の曲輪(本丸)」とし、そこを中心に東西に多くの出丸などを配置してます。

明智城址碑
現在は住宅などが城の縄張内に入り込んでしまっていますが、北側と中央部は比較的当時のまま残っています。中央部には「三の曲輪」があり、城址碑が建っています。また、北側には「乾曲輪」があり、落城の際戦死した明智一族・郎党を弔うために作られたとされる「六親眷族幽魂塔」が発見され、今もそこに祀られています。なお、現在、北麓の大手口から城址散策道(後述)が整備されています。
 この山城はいざという時のために築かれたもので、城主や家臣団は、普段、城の北麓で生活しました。今でもこの集落の字名(天子屋敷・大屋敷・都一等)にその名残があり、また、八幡社(源氏の守神)や明智城鬼門除けの神社なども残り、「光秀産湯の井戸」と伝えられる場所もあります。
「落城後の明智城」
明智城は弘治二年(一五五六、室町時代末期)、美濃の支配者・斉藤義龍が攻め、服従しない者への見せしめとして徹底的に破壊してしまったのです。江戸時代、明智荘は旗本達が分割統治し、いつしか忘れられていました。そして現在、砦は姿を変え、当時の地形が残るのはほんの僅かです。残った部分は「明智城址散策道」として整備されています。
明智一族の墓
「明智城址散策道」

大手口前

六波羅眷族幽魂塔
明智城址散策道は大手口跡からスタート。
まず山稜の「出丸」に出ると、南に戦死した将兵を葬ったといわれる「七ツ塚」があり、西へ進むと「明智城址碑」があります。城址碑からは眺めもいいので、戦の時には、敵の動きがよく見えたことでしょう。
さらに進むと、「乾曲輪」に出ます。長く北へ突き出たこの曲輪はもっとも見張・守備に適していたので、大激戦地となったところです。
そのため落城後、戦死者を葬った「千人塚」が作られ、また、明智家の一族を弔うための「六親眷族幽魂塔」が彫られこっそり地中に埋められました。この塔は城址調査の時発見され、いまもここに祀られひっそりと建っています。ここから標識に従って歩けば大手口に戻ります。
北麓の天竜寺には明智一族の墓が4基並び、光秀公が亡くなった旧暦6月(現在の7月)に「光秀公御法要」が行われています。